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長田弘の名言903件

もしも、絵本を自分へ贈るのなら、それは自分に「もう一つの時間」を贈ることです。もしも、絵本を誰かへ贈るのなら、それはその誰かへ、この世界への眼差しを共にしたいという思いを贈ることです。
誰もが人生を目的と考える。ところが、世界は誰にも、人生を手段として投げかえす。彼女は思う。人生は目的でも、手段でもない。ここから、そこへゆくまでの、途中にすぎない。
描かれていない色を見るんだ。聴こえない音楽を聴くんだ。語られない言葉を読むんだ。たのしむとは沈黙に聴きいることだ。木々のうえの日の光り。鳥の影。花のまわりの正午の静けさ。
きみはほかの誰にもならなかった。好きだろうがきらいだろうが、きみという一人の人間にしかなれなかった。そうと知ったとき、そのときだったんだ、そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになっていたんだ。
子どものきみは、ある日ふと、もう誰からも「遠くへいってはいけないよ」と言われなくなったことに気づく。そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、ひとりの子どもじゃなくて、一人のおとなになってたんだ。
ふと気がつくと、いつしかもう、あまり「なぜ」という言葉を口にしなくなっている。そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、ひとりの子どもじゃなくて、一人のおとなになっていたんだ。
「なぜ」と元気にかんがえるかわりに、「そうなっているんだ」という退屈なこたえで、どんな疑問もあっさり打ち消してしまうようになったとき。・・・そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになっていたんだ。
ちがった街では誰に会うこともない。忘れていた一人の自分と出会うだけだ。その街にゆくときは一人だった。けれども、その街からは、一人の自分と道づれでかえってくる。
日本語の漢字はわたしたちのなかに、連想する力をふんだんに育ててきたけれども、カタカナのことばはことばの地下茎がもともと断ち切られてしまうため、なかなかそうはゆかず、ことばによる連想の力、イメージをゆたかにつらねてゆく力を、どうしても殺いでしまいやすいのです。
わたしたちは、ことばというものを、それぞれの頭の中、心の中にもっている自分の字引きによって理解します。めいめいが胸にもつその自分の字引きが、どんどん薄くなってきているのではないか。感じ、考え、思うことを、自分のことばで、きちんと、生き生きと言い表すということが、びっくりするほど下手になってきている。
わたしたちはともすれば、自分は自分だと言えば、それが自分であるというふうに思いなしがちですが、それはちがいます。わたしたちの自分というのは、むしろ自分でないものによってしか語ることができないものです。
わたしたちの中にいる自分は、言葉をもたない自分です。あるいは、言葉に表すことのできない自分です。そうした無言の自分を、どんな言葉よりも雄弁に、もっとも的確に、もっともよく語ってくれるような親しい物、なじんだ物、懐かしい物、そうした物が何か。それがその人の、その人らしさそのものを顕わすものであるということ。ちょうど、死者があとに遺す形見とよばれるものが、その人のその人らしさを宿す物、その人の記憶をとどめる物であるように。
どれほど時代が変わろうと、ひとはこの世に、原初のままに生まれます。そうして、誰もがこの世でじぶんが最初の人間であるかのように、大気を息し、声を発して、ことばを覚え、やがて、みずからじぶんの現在を生きる一人になってゆきます。育つというのは、原初から現在への時間を、ひとが一身に、ふかぶかと生きてゆくということです。
詩は(わたしにとっては)語るためのことばではありません。黙るためのことばです。大切にしたいのは、世界をじっと黙って見つめることができるような、そのようなことばです。
書くというのは、二人称をつくりだす試みです。書くことは、そこにいない人にむかって書くという行為です。文字をつかって書くことは、目の前にいない人を、じぶんにとって無くてはならぬ存在に変えてゆくことです。
平和というのは、平和とはこういうことなんだといおうとすると、どうしてもちがってしまうような言葉なんですね。しかし、平和という言葉は、平和とはこういうものだということをいう言葉ではないのだ、とおもう。わたしは、平和という言葉がよくわからない言葉であるということを、むしろ重く考えたいんです。よく分からない言葉だから、それは繰り返し問いかけてきて、かんがえさせられる言葉なんだとおもうのです。
平和という言葉は一人決めできない、一人じめできない言葉であり、むしろ平和ってどういうことだろう、という問いをふだんに共有してゆくための言葉だろう、というふうにおもうんです。自明な言葉でも守る言葉でもなくて、それは問いをもってたがいにかかわってはじめて言葉であるような、そうした言葉ですね。問いを分けあう開かれた関係を本質としてもっているという言葉ということです。
しばしば、体験は言葉にはならないんだということがいわれる。わかりっこないんだ、と。確かにそういえるだろうし、体験がうけとりうるものは、結局のところ誤解でしかないかもしれない。しかし、体験のほんとうの意味は、そうしたわかりっこなさ、つたわらなさ、誤解というものにどれだけ耐えられるかということからはじめてでてくる。
体験を言葉にしてゆこうとすればじぶんの(体験に対する)誤解をもとに体験にちかづいてゆくことの自覚がひつようだし、むしろそうしたみずからの誤解を引きうけ、そこをくぐりぬけてゆかないとどうしようもない。
わたしは、経験というものは、体験者が非体験者へつらなる道をさぐること、非体験者が体験者への想像力を獲得してゆくことの交差によって、はじめて経験とよべるものになってゆくんだとおもうんですね。
言葉はすべてを表現できない、ということをよくよくかんがえなければいけないんだとおもう。どんなものでも言葉にしてしまえば「そんなもの」になってしまうだろう。
(体験の継承において)何をつたえるかじゃなしに、何がつたわらないか、ということが真のコミュニケーションのはじまりなのであって、思想の継承はリレー競走のバトンタッチじゃない。
じぶんが体験しなかったこと、できなかったことにたいして無垢でも無実でもあることができない、というのがわたしたちにとってのありようだとおもうのです。わたしたちはそうしたありようそのものを突きつめてゆくことによってしか、じぶんが体験しなかったもの、できなかったものへの想像力を、つまり他者への想像力を生きることができない。
無駄を怖れたら、たのしみはない。無駄を怖れない一個のこころのあるところにしか、いま、ここが確かに感じられるような一人のじぶんの自由な時間なんて、ほんとうはないのだ。
生活の質感というのは、変えうるもの、変わってゆくものによってではなく、むしろどうしても変えれらないもの、変わらないものによってつくられていて、そうしたものに深くむすばれているのが、そのひとの生きる思想だ。
考えはとりかえることができるかもしれないが、考えかたはそう簡単にとりかえることはできない。その人のもつ考えかたは、その人のもつ生きてある習慣と根ざしているからだ。
新しい知らない言葉というのは、そのほどんどが、ただ新しい名詞ばかりなのだ。わたしたちが手にもつ言葉のなかで、新しい知らない名詞だけがとんでもなくふえつづけている。
次から次へおびただしくつくりだされてきた新しい名詞は、その言葉を知ると知らないもののあいだをへだて、おたがいを孤立させるということをしてきた。その名詞を知らなければ、話にならない。その名詞を用語として共有できて、はじめて場ができる。いまはそんなふうだ。
(現代において)知識とは、新しい知らない名詞をたくさん収集することであり、情報は、新しい知らない名詞をたくさん提供することだ。売るとは、新しい知らない名詞を売ること。消費は、新しい知らない名詞を消費することだ。
圧倒的に、名詞の時代なのである。なんだかんだといってゆたかとされる今日の、そのゆたかさは、おおすぎる名詞をひたすらこしらえて、使いつづけて、使い捨てているゆたかさなのだ。
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長田 弘(おさだ ひろし、1939年11月10日 - )は、詩人。 福島市生まれ。早稲田大学卒業。 1960年、詩誌「鳥」を創刊。雑誌「現代詩」「詩と批評」「第七次早稲田文学」の編集に加わる。『私の二十世紀書店』で毎日出版文化賞、『深呼吸の必要』『心の中に持っている問題』等により路傍の石文学賞、『記憶のつくり方』で桑原武夫学芸賞をそれぞれ受賞。 主な作品集、『長田弘詩集』『メランコリックな怪物』『言葉殺人事件』『食卓一期一会』『詩人であること』『見よ、旅人よ』『読書百遍』『笑う詩人』『失われた時代』など。 日本の詩人 おさだひろし 1939年生 おさたひろし
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