名言info

寺山修司の名言510件

親にとって、子が一人立ちできるようになった日からはもう子は自分のものではないのだ……ということを知る必要があるのです。
「名言」は、言葉の年齢とは関係ない。それは決して、年老いた言葉を大切にせよということではなく、むしろその逆である。老いた言葉は、言葉の祝祭から遠ざかってゆくが、不逞(ふてい)の新しい言葉には、英雄さながらのような、現実を変革する可能性がはらまれている。
ホントよりも、ウソの方が人間的真実である、というのが私の人生論である。なぜならホントは人間なしでも存在するが、ウソは人間なしでは、決して存在しないからである。
朝の「さよなら」は舌に残った煙草(たばこ)の味だ。シーツの皺(しわ)。モーニング・コーヒーのカップに沈んだ砂糖。そしてなんとなく名残(なご)り惜しく、そのくせすこしばかりの自己嫌悪がともなう。
昼の「さよなら」は笑顔でできる。すぐまた逢えるような気がする。だが、一番はっきりと二人をへだてるのは昼の「さよなら」である。涙は日が沈んでからゆっくりとあふれ出る。
ダミアはシャンソンで、「海で死んだ人は、みんなカモメになってしまう」と歌いましたが、カモメになれなかった溺死(できし)の少女は、今も海の底に沈んでいます。だから、ひとはだれでも青い海を見ていると悲しくなってしまうのです。
この世界では、まっすぐの道はすべて迷路なんだ。なぜなら、まっすぐの道は、どこまでも歩いてゆけば、必ずもとの場所に戻ってくる。何しろ、地球は球体をしているからね。
もし、彼(=ヒットラー)の実現した世界が、現実ではなくて、映画俳優たちによって演じられたスクリーンの中の物語、あるいはリンツの劇場の歌劇であったとしたら(彼自身はそれでも充分満足したに違いないが)──悪の巨匠として、別の評価をうけていたかも知れない。
ネロの一生はどこかヒットラーの一生を思わせる。彼らはオペラハウスでやることを国家の歴史の上で演(や)ってしまったという「場ちがい」をしただけのことだからである。
ぼくはどこへも行けなかった……あの忌(い)まわしい家族たちから逃れてわが家の他人になるための放浪に出るには何かが欠けていた、そう、肉親への憎しみが、欠けていたのだ。
家族たちさえも憎めないようなぼくにどうして他人を恨むことができようまして愛することなんか……
愛したり恨んだりするには他人が必要だ……だが、ぼくはまだ他人らしい他人に逢(あ)ったことがない……
過去の再創造のための想像力だけが歴史の運命にかかわることができる。一切の幻影によって作詞された世界、その偶然性を組織する叙述力、ドラマツルギー……それらをして雄弁たらしめよ。
書物や叙事詩に意味を与えてゆく思想というものは、きわめて時間的なものであり、たとえば草の上に開いてある書物に、雲の翳(かげ)がゆっくりと過ぎてゆくようなものである。
ソクラテスの存在も、プラトンの頭の中の虚構が半分、という推理が成り立つ。だれだって、自分の愛人の伝記を書くときには「あるがままの彼」ではなく、「そうあってほしかった彼」を書くものだからである。
誰かに何かが足りない、というのでは悲劇は描けないのであって、真に劇的なる葛藤は、すべての充足したときにも起こり得る不条理な現実の上に成り立っているのである。
「大事件は二度あらわれる」とマルクスは言った。一度目は悲劇として、二度目は喜劇としてだ!だが真相はこうだ!一度目は事件として、二度目は言語として、だ!
時がくると、私の人生にはピリオドが打たれる。だが、父親になれた男の死はピリオドではなく、コンマなのだ。コンマは休止符であり、また次のセンテンスへとひきつがれてゆくことになる。
死は、いつでも生のなかにつつまれていて、ニシンと数の子のように、同じ時をかぞえているのである。死の恐怖は、同時に生の恐怖でもある。この二重奏は、ときには死の実存をかなでるラヴィアン・ローズなのである。
不死身……それはにんげんのみる最後の夢、一番重い病気だ。だが死なずに老いてゆくとしたら、それは何というおそろしいことだ。
私は自分だけのものではなくなってゆく死について想うようになった。もしかしたら、私の死は私に手渡される前には、ほかのだれかがあずかっているのかも知れない。
自己の死は数えることができない。それを見ることも、手でふれることもできない。だが他者の死は読める。数えられる。手でさわることもできる。それは再現さえ可能の世界なのだ。
カフカは『兄弟殺し』の中で「なぜ人間は血の詰まったただの袋ではないのか」と問いかけているが、その答えは簡単だ。人間は「話しかける袋」だからである。「血の詰まったただの袋」は、決して叫んだり話しかけたりはできないのである。
友情というのは、「魂のキャッチボール」である。一人だけが長くボールをあたためておくことは許されない。受けとったら投げかえす。そのボールが空に描く弧が大きければ大きいほど受けとるときの手ごたえもずっしりと重いというわけである。それは現代人が失いかけている「対話」を回復するための精神のスポーツである。
私は短い時間に賭けるものにほど親しみを感じる。なぜなら、三日に生き甲斐を感じるものよりも三分に生き甲斐を感じるもののほうが「より多く生きられる」ことになるし、いかにも「生き急ぐ」ものの栄光と悲惨がナマナマしく感じられるからである。
怒りは自動車のガソリンのようなものです。怒りは要するに明日への活力です。怒りをこめて「ふりかえって」も、すぎさった日々は回収され得ないでしょう。それに過去というのは常に廃墟でしかありません。
愛憎は人間と人間とのあいだにしか生まれぬ感情だが、怒りは時として神に対しても向けられる。それは、自然と人間とのむなしい闘いのなかにも生まれる、きびしい情念の父なのである。
ボクサーは自分に勝つ必要なんかない、敵にだけ勝てばいいんだ。敵と戦わなきゃならん大切なときに、自分とも戦うなんて、無茶なことだ。まるで、二人も相手にするようなもんじゃないか。
(ボクシングという)あの、殴りながら相手を理解してゆくという悲しい暴力行為は、何者も介在できない二人だけの社会がある。あれは正しく、政治ではゆきとどかぬ部分(人生のもっとも片隅のすきま風だらけの部分)を埋めるにたる充足感だ。
私は必ずしも「競馬は人生の比喩だ」とは思っていない。その逆に「人生が競馬の比喩だ」と思っているのである。この二つの警句はよく似ているが、まるでちがう。前者の主体はレースにあり、後者の主体は私たちにあるからである。
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name=寺山 修司 birth_date=1935年12月10日 occupation=小説家、映画監督、作詞家 寺山 修司 (てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)は、日本の詩人、歌人、俳句 俳人、随筆家 エッセイスト、小説家、評論家、映画監督、俳優、作詞家、写真家、劇作家、演出家など。演劇実験室・天井桟敷 (劇団) 天井桟敷主宰。本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」とかえすのが常だった。 言葉の錬金術師の異名をとり、膨大な量の文芸作品(小説・エッセイ・評論・戯曲・シナリオなど)を発表。その一方で、映画・演劇なども幅広く手掛けた。競馬への造詣も深く、『ユリシーズ』(船橋競馬場所属)という競走馬の馬主になるほど。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。
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