名言info

藤沢武夫の名言79件

企業には必ず、“振り子”を振らなければならない時がある。その時が来たら、振りすぎるほど大きく振ったほうがいい。実はそれでちょうどよくなるんだ。
経営者とは、一歩先を照らし、二歩先を語り、三歩先を見つめるものだ。
競馬は儲からないでしょ? 馬畜生に他人が乗って走るものなんぞに、お金なんざ預けたら駄目だ
若さを信頼できなくなった企業は死ぬ
順序を変えなければ企業は失敗する。それは、「お客様の喜び」を第一番目にしなければならない筈だ。その喜びがあって初めて「売る喜び」があるはずである。その2つの喜びの報酬として「作る喜び」になるのが順序である。
重役とは、未知への探求をする役である。重役が未知の探求をしないで後始末ばかりしている掃除屋であってはならない。
子供にあんな思いをさせている自分が経営者として情けない。
ホンダの社内運動会で、社員の子供たちがツギの当たったズボンをはいているのを見た時の言葉。会社の業績をもっと伸ばし、社員にもっと給料を払ってやれれば、社員の子供たちもツギの当たったズボンをはかなくてよくなると、社員の給料に対しても自分の問題としてとらえた言葉
私は技術屋じゃないから、どっちが正しいか返事はできない。ただ、あなたは技術屋の本田になるのか、社長の本田になるのか聞きたい。こんなことを言うのは初めてだけど、私も言いだすと聞きませんから。そのときはお別れします。
本田宗一郎と若手技術者が、4輪車のエンジンを空冷にするか水冷にするか言い争っているのを見て言った言葉
物価が倍々と上がってゆくような、戦後のインフレの時代では、多少持っていた戦前からのお金もどんどん消えてゆく状況だったが、でも私は、自分の一生をかけて、持っていた夢をその人と一緒に実現したいという気持ちだった。そこから私はスタートしたんです。
大きな夢を持っている人の、その夢を実現する橋がつくれればいい。いまは儲からなくても、とにかく橋をかけることができればいい。
私は商売人だから、これからいっしょにやるけれども、別れるときに損はしないよ。ただし、その損というのは、金ということではない。何が得られるかわからないけれども、何か得るものを持ってお別れするよ。だから、得るものを与えて欲しいとも思うし、また得るものを自分でつくりたいと思う。
本田宗一郎と一緒に仕事をすることを決めたときの発言
芸術というものが人と人との触れ合いから生まれるものであるとすれば、家庭も芸術でなければならないし、経営も芸術だろうと思うんです。物ではなく、心である。ロマンチストとしての私の企業経営との接点はそこにあるんじゃないでしょうか。
創業者と普通の経営者とは、ちょっと違うと思うんです。創業者はいわば一種のバクチ打ちですね。どんな浮き沈みがあるかわからない。だから、小心な女房では駄目だろうと思う。結局、亭主の足を引っ張ることになりかねません。創業者の奥さんはかなり度胸がよくなけりゃあならないと思います。
本田が若いときに自動車レースをやった多摩川の河原に、ときどき連れていかれました。一周600メートルぐらいで、競輪もやれば、競馬もやるというようなところです。そこに方々のメーカーがオートバイを持ってきて、ホンダが勝つこともあれば、負けることもあるというレースをやっているうちに、部品も進歩してきた。トラブルが起きるたびに飛んで行って、その悪い点を直させてゆくのです。
ホンダの草創期について語った言葉
実力もないのに、と思いながらも、現実の困った状況についてくどくど言わずに、将来の夢と目標を宣言したわけです。これで私はみんなのシュンとした気持ちを盛り立てられればと思った。これはかなり効果があったと思います。世界を目指しているんだという具体的な行動を示したということです。従業員に金をやるといっても金はないし、借りてきたとしても、それは取引先にまわさなければ顔向けができないし、という状況での苦肉の策がマン島のT・Tレース出場の夢だった。
経営が厳しいときに、世界最高峰のバイクレースT・Tレースに出場する目標を掲げたことについて語った言葉
トップが一緒に行動する必要がどこにありますか。年中一緒にいるということは、裏を返せば、お互いの意思が完全につながっていないことを示すものではありませんか。縦糸さえ通っていれば、一見お互いにばらばらの行動であってもいいのではないでしょうか。
本田宗一郎との仲について聞かれたときの発言
ここで、他社のあとを追って値上げしたら、ホンダはあたりまえの企業でしかなくなる。値上げしないことを社長が決断し、新聞社に発表したならば、ホンダという会社は異色だというイメージを与えるだろうし、日本経済のインフレ・ムードに水を差すことにもなるだろう。だから、資材の購入も安定した価格で入れることができるだろう。
オイルショック時に他社が値上げする中、値上げしないことを決めたことについて語った言葉
生産企業は生産企業なんですから、為替差益なんかで金儲けしちゃいけない。だから、私は本業以外のもので金儲けをしてはいけないという原則を、本田技研でつくりました。本田技研は本業で金儲けをする。もっと金儲けをしたかったら、パチンコ屋でもやりゃあいいんだ、というのが私の経営理論なんです。
生産企業では、つくっている商品で儲けているということで、技術者にしても、現場の人たちにしても誇りを持つことができる。俺たちが一生懸命働いているから会社が成り立っているんだということです。
ある特定の一人、二人が為替をいじって、5000万とか1億円儲けたとします。すると、営々と働いて3000万円の利益しかあげられない多くの人たちは、為替の大儲けに決していい感じは持たないだろうと私は思います。ものをつくる会社に働いているものをつくる人たちは、自分たちの働きが、あるひとつの知識による稼ぎよりも劣ったものでしかないと思ったときに、寂しさを感じて、情熱を失ってしまうだろうと思う。
ホンダはものをつくる会社なんです。ですから、どんなに儲かる話があっても、その話には乗らない。儲けるならみんなの働きで儲けるんだということを、ホンダの金科玉条にした。
80%の国内二輪市場のシェアを得たころ、私は各工場の技術者を一週間缶詰にして、経営について勉強してもらったことがあります。バランスシートや売上と在庫の関係、増産による利益などについて、技術者は部分的には勉強しているけれども、それがどういう結果を生じているかということまでは知らない。しかし、生産企業で働いているからには、それがわからなかったら仕事ができない、というのが私の建て前なんです。
技術屋がお金を知らないと、部長になっても、工場長になっても、重役になっても大変です。毎日書類にハンコを押す仕事が多くて、そのなかには、お金のことを知らないと判断できないものがいっぱいあります。商品の価値は技術屋だからわかるんですが、その価値とお金の流れとの両方を知らなければ経営はできない。
課長は部長は、未来を見通す力、リードできる力を持っていなければなりません。
本田とは逆に、私はめったに工場へは行かなかったのですが、行ったときは必ずプラスチック部門に顔を出すようにしていました。プラスチックは最初のジュノオ号の失敗で、使いようがなくなっていて、現実には生産の役には立たないけれど、将来のためにいろいろ試作しているわけです。いま仕事のある華やかな職場にはいきません。私がそんなところに行ったってしょうがないんです。
のちにこの部署はスーパーカブの開発で力を発揮し大きな利益をもたらした
私はわりに理論的です。経営についての考え方は理論的だと思います。理論的なら社長が務まるかといえば、これは別です。社長ってものは、理論なんかなくったって、「いいからかん(いい加減)」でいいんです。ただ本物の自分を持っていること、技術では本物だということ、それで十分です。あとのことは他の人がやればいい。
本田技研の社長は技術系の人間が受け継いでいくべきだ、と私は思っています。たとえば経理出身とか銀行出身の人が社長になっても、技術というものを理解できない。「そんなものは後回し」ということになっては大変です。
複数の知恵を集めれば、本田一人よりもプラスになる。本田宗一郎の持っている力よりもレベルの高い判断が生まれる。そういう体制をつくらなければならないのです。これまでのところ、ホンダはそうしてきました。一人の人間に頼らなければできないというものがあってはいけない。
本田宗一郎は特別な人間です。だから、彼のような人物を育て上げようとしても無理です。それならば、何人かの人間が集まれば本田宗一郎以上になる、という仕組みをつくりあげなければならないということです。そうしなければ、この企業は人様に迷惑をかけることになる。
本田宗一郎、藤沢武夫の特長とは何かといえば、ひとことで言って、エキスパートであるということでしょう。面倒見のいい管理者タイプでは決してありません。本能と直感で動きます。こういう人間は、世間一般の組織図で固められた集団の中では生きられないのです。せいぜい出来の悪い管理者になって、才能をすり減らしてしまうのが落ちでしょう。しかし、エキスパートを活かせない限り、ホンダがユニークな企業として発展することはできません。
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藤沢 武夫(ふじさわ たけお、1910年11月10日 - 1988年12月30日)は、実業家。東京都出身。本田宗一郎と共に本田技研工業(ホンダ)を世界的な大企業に育て上げたことで知られる。 1910年東京都小石川区に生まれる。旧制京華中学校を卒業後、1934年から「三ツ輪商会」という鋼材小売店に勤める。1939年には独立して「日本機工研究所」を設立。しかし戦争が激化したため同社をたたみ福島県に疎開する。戦争終結後も福島にとどまり製材業を営む。 1949年8月に本田宗一郎と出会い、同年10月には製材業を引き払い上京、ホンダの常務に就任。以後東京営業所の開設を皮切りに、ホンダの財務並びに販売を一手に取り仕切るようになる。1952年には専務、1964年には副社長に昇格。この時代、実質的には藤沢がホンダの最高経営責任者 CEO、本田がCTOを務めていたと評する人も多い。ちなみに1954年に発表された本田の「マン島T.T.レース出場宣言」は藤沢の手によるもの。
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