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江崎利一の名言55件

戦争は終わった。惨憺たる敗戦である。グリコの本拠もかくのごとく灰燼に帰した。しかし、我々は決してグリコの再生復興を疑ってはならない。工場も機械も、材料も商名も一切が焼け失せたが、ここにまだ、さすがの敗戦にも焼けなかった最大の資本がある。それはグリコという看板である。のれんである。名前である。これは過去30年間営々として築き上げてきた我々最大最高の資本である。
無名商品の販売方法として私はこう考えていた。「下から石をひとつずつ積み上げて山頂に達するより、逆に山頂から石を転がしたほうが勝負は早いかもしれない」。そこで、将来、一流商品になるべきグリコは、どうしてもまず一流商店から発売しようと決心した。これが三越参りのきっかけだった。何度となく足を運んだが、のれんを誇る三越では、海のものとも、山のものとも分からない新商品など、納入させてくれなかった。しかし、断られても断られても、私は三越に頼むことをやめなかった。私は三越で最初に売り出すことの利益を十分考えたからである。
私はやがて81歳になる。この年まで現役の社長をやっているのは、よほどの物好きか道楽者と言われても仕方あるまい。もともと好きな仕事ではあり、それに商売というものにはキリがないのだから致し方ない。もし、私から商売を取り上げてしまったら、いったい何が残ろう。趣味の少ない私にとって商売こそ私の生命であり、生涯かけた唯一の仕事である。幸い精神年齢では、若い者に決して引けはとらない。自慢ではないが、私の内臓器官に至っては40歳代だと医者が証明してくれた。これは一昨年の胆石手術の際にわかったことである。
80歳当時の発言
グリコを始めたのは40歳を過ぎてからである。したがって、少年時代も青年時代も田舎で過ごし、学問は全くの独学である。もともと菓子のことなどはズブの素人であったが、実地に臨んで現実と取り組み、努力し、工夫しながら一歩一歩を歩んできた。
私は先見の明とか、広告法、さらには人心をつかむ気合い術、暗示を生かす催眠術など商売人として生き抜くために必要ないろいろなことを身をもって体得してきた。
本当の商売のあり方、すなわち真の商道精神というものについて、私に初めて教えてくれたのは、寺子屋の師匠で、楢村佐代吉先生である。「商売というものは、自分のためにあるとともに、世の中のためにあるものだ。商品を売る人はモノを売って利益を得るが、買う人もまたそれだけの値打ちのものを買って得をする。この均霑性(きんてんせい、平等に利益を受ける性質)すなわち共存共栄がなかったら、本当の意味の商売は成り立たないし発展もしない。商売で大成しようとする者は決してこのことを忘れてはならない」
儲けようと思ってやる商売には自ずから限度があると思っていい。あくまで社会の要求に沿うような奉仕の精神で打込めば、必ずその事業は大成するに違いない。私は商売人であることを大いに誇りとしているのである。
私自身まことに良い環境に置かれたもので、小さいときから「働く習慣」が知らず知らずのうちに我がものとなって、少しもそれが億劫でなくなった。私は学校教育の機会には恵まれなかったが、この勤労教育には大いに恵まれた。ここに、あれこれ仕事を命じた父の本意と慈愛があったものと、私はありがたく感謝している。
幼少期から家業の薬屋を手伝わされたことについて語った言葉
父の考えでは、人間は人の世話になると一生頭があがらない。世話にならずに済めばそれに越したことはない。無理をして学校に進まなくても、働き次第、努力次第で学校出に負けない立派な商人になることができる。それが我が家のためであり、また子供自身のためでもあると考えたようだ。
結婚すると私は本業の薬屋に専念した。そして(旧制)中学の講義録、さらには商売に欠かせない販売、宣伝広告、薬業などについて独学に励んだ。当時、佐賀市内にあった大坪書店から「商業界」を購読していたが、この本の注文は、私のほかもう一人、玉屋百貨店の前身丸木屋呉服店の支配人ということだった。
家業に専念してから一年余りたった年の春、かねて商売の勉強にはぜひ一度大阪へ行ってみたいという念願がようやく叶うときが来た。佐賀の田舎では旧正月の1か月間は農閑期で、温泉場で遊んで過ごすのが習慣であったが、私はこの機会に大阪の初見物を実行することにした。休養と視察とそして商売を兼ねた旅行だったが、予想以上の収穫を得ることができた。
私はこれほどの大商売になろうとは全く予想もしなかった。それだけに、あくまでも行き過ぎということを警戒した。生活も薬屋時代の質素な暮らしを続けた。そして、いつかは機会を得て大阪に進出したいという考えがあったので、その方に備えての備蓄を怠らなかった。
外国から大樽でワインを格安に仕入れ、瓶に入れて販売する商売が当たり、九州一のワイン販売業者になった当時を振り返っての発言
なるほど、グリコ・キャラメルなら、既存のキャラメル類におんぶされて、楽に伸びられるかもしれないが、それでは新しい栄養菓子を売り出す意義がない。それに既存商品を追い越すことは絶対にできないだろう。キャラメルではない新しい菓子が、グリコなのである。売り出す苦労は、覚悟の上のこと。簡単、剴切(がいせつ=よく当てはまる)で語呂がよく、広告の原則にもかない、効果の上でも有利と判断したからである。
商品名を「グリコ・キャラメル」にした方がいいという大勢の意見を無視し、「グリコ」の名で販売開始した理由について語った言葉
専門家の不可能というものを、可能にしてみせようと張り切った。それに、小さい子供の口に入るからには、口当たりや舌触りの良いものでなければならないと考え抜いた末、ハート形の型抜きに成功した。世界でも初めてだと聞いている。
グリコの形について菓子製造の専門家に聞きにいったところ、利一氏のアイデアを否定されたことについて語った言葉
資本金6万円の栄養菓子会社(グリコ)はスタートした。当時森永1500万円、明治750万円の資本金だった。菓子の上では何ひとつ経験もなく、新しい事業に乗り出したのである。折あしく、業界は倒産が続出し、メーカー淘汰が頂点に達したときだった。悪いときに船出したものであるが、不況の後は好況と、私は歯を食いしばって頑張った。
ある日、見るともなしに見ていると、子供たちが走りっこをしている。先頭になった子が、勢いよく両手をあげてゴールインする。その姿を見て私は考えた。「人間は誰でも、健康でありたいと望んでいる。健康のためには、体を鍛えなければならない。そうだ、スポーツこそ、健康への道だ。そして、子供の遊戯本能もまた、スポーツの中にはっきり現れているではないか。ゴールインの姿は、それらの象徴というべきではないか。グリコのマークとして、これほどぴったりのものはない」
グリコのマークを思いついたときを振り返っての発言。佐賀の実家の近所の八坂神社にて
私は早速、ゴールイン姿のマークをこしらえた。それまでに、ゾウ、ペンギン、ハト、花などのマークができていた。その中に新しくゴールイン姿を加え「どれが一番好きか」を、近くの小学校でテストした。さらに一週間後「どれを一番覚えているか」を調べた。佐賀だけでなく大阪の小学校でも同じ調査を行った。結果は圧倒的にゴールインの支持が高かった。こうして、両手をあげてゴールに飛び込むランニング姿が、グリコのマークと決まった。
私は栄養菓子グリコを売りたかった。牡蠣からとれたグリコーゲン、息子の病気を救った牡蠣エキス、これを国民の健康に役立てようというのが私の念願だった。だから、私一人になってもやるという心に嘘偽りはなかった。
いつものように工場の仕込みを済ませ、明日の宣伝販売の段取りを終えると私は戸外に出た。家の前のたかきや橋に立って沈思黙考するのがそのころの私の習慣だった。その夜は、人の苦悩も知らぬ綺麗な月が輝いていた。橋の上から川面に映る月影を見ていると、さすがの私もふと「いっそ、このまま川の中に飛び込んでしまったら……」という気持ちに誘われ、ハッと我に返った。「そうだ!死んだ気になってもう一度頑張ってみよう。まだまだ努力が足りないのではないか」。
グリコ発売後数年間鳴かず飛ばずだった時代を振り返っての発言
俗に「遊び食い」という言葉があるほど、子供たちは食べながら遊び、遊びながらも食べる。どちらか一方だけでは満足しない。彼らはいつもオヤツとオモチャの世界に住んでいる。食べることと遊ぶこと、この二大天職をひと箱で満足できれば、子供にとって大きな魅力ではなかろうか。グリコで健康を増進させ、オモチャを通じて子供の知識と情操を向上させる。これこそ事業即奉仕の精神につながる。そうだ、オヤツに加えてオモチャを提供しよう。
この発想によりグリコは爆発的に売れるようになった
先行者の失敗は不可能を物語っているのだろうか。いや、むしろ限られた可能性があって、それを発見し、徹底的に研究していけば間違いあるまい。彼らはなぜ失敗したのか。私はその辺をよく考えた。
大阪から東京へ進出した業者7社がすべて失敗したということを聞いたときを振り返っての発言
問題が起きたら誠心誠意取り組むことだ。問題の解決から一歩を進め、次の積極的な活動に入ることを忘れてはならない。それはきっと上手くいく。
良いと信じ、正しいと決めたことは決して遂行を緩めてはならない。誠意を持って取り組むべきことを私はこのときハッキリ胸に刻んだのである。
郷里の佐賀にいたころ、コレラで村人が大量に倒れたとき、応援の医者が来るまで面倒を見てほしいと頼まれ懸命に看病した結果、一人も死なせず全員回復させることができたことを振り返っての発言
新店舗ができたり、新工場ができると、どうしても気の緩みが出る。自分ばかりではない。従業員にもその危険は十分にある。「敵国外患なきは滅ぶ」という言葉もある。ここで過去の苦労を忘れてはそれこそあぶない。そこで私は、創業時代の強い勇気と創造の熱意を忘れないためには、どうしても第二の創業を体験するのが最有効と考えた。私は新しくビスコの発売を思いついた。
ビスコの製法上の新機軸として、サンドクリームをビスケットに付着させるのに、業界では不可能とされている脂肪の使用を研究し、ついにはこれに成功した。この方法は、はじめ同業の冷笑を買っていたが、ビスコの成功によって業界一般にも普及し、いまではほとんど全国的に採用されるまでになった。
私の生家は貧しく、その貧しさの中で父は私をさとした。「金を借りている人の前では、正論も正論として通らぬ。正しい意見を通すためにも、まず貧乏であってはならない。浪費を慎み、倹約に努め、商売に精を出して、ひとかどの資産を積んでもらいたい。しかし、金をつくるために金の奴隷になってはいけない。世の人から吝嗇(けち)と卑しめられてまで金をつくろうとしてはならない。そして金ができたら、交際や寄付金は身分相応より少し程度上げて努めていけ。それで金をこしらえていくのでなければ、立派な人間とはいえない」
私は工場を死に場所と考えている。現在の用地を買収するときも、農民に襲われるほどの命がけの交渉を行ってきた。ほかにも生命の危機にさらされたことは、これまで3度もある。命が惜しいとは思わぬ。今度建ててやられたら、もう一度建てる。力の続く限り何度でも建てるつもりでいる。だから今の場所に工場を再建し、決死の覚悟で操業を続けたい。
太平洋戦争当時、工場を爆撃で破壊された直後、「他の場所に移るように」と軍から命令されたときの発言
グリコという看板は全国隅々まで、グリコ愛用者の頭の中に刻み込まれ、記憶のうちに残されていて決して焼けもせず、消え去りもしていない。我々が精魂込めてつくりあげた不滅の大資本であり、信用である。これがある限り、またこれに恥ずかしからぬ我々の努力精進がある限り、絶対にグリコは復興する。いや、復興以上の一大飛躍を遂げるであろう。
太平洋戦争によってすべての工場と機材を失ったときの発言
広告は資産であるということは、かねて一般にそう言われている。しかし、これを実験した人はまだいないと思う。これを厳密にやろうと思えば事業をやめ広告を中止せねばならない。しかるに幸か不幸か、私はそれを実地に試して、広告は立派な資産であるという実感を得た。というのは、太平洋戦争の前後8年にわたって中止していたグリコとビスコの生産を終戦後再び始めたとき、実験の意味でまったく広告せずに売り出してみた。グリコの記憶が残っているのは多くて70%くらいだろうと予想していたところ、80%までが知っているという調査結果が出た。そしてその割合で製品は売れた。このようなわけで、広告は資産なりということが事実によって確認できた次第である。
私の実業家としての使命は、学者や専門家によって研究された食料や新栄養源を、国民の体位向上のためにすみやかに企業化し、社会に多くの価値を提供することだと信じている。
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江崎 利一(えざき りいち、1882年12月23日 - 1980年2月2日)は、日本人実業家である。佐賀県佐賀市出身。江崎グリコの創業者。 後の江崎グリコとなる「江崎利一商店」の店主だった頃、カキ (貝) カキの煮汁からグリコーゲンを採取し、栄養菓子「グリコ」を開発した。現社長・江崎勝久の祖父。 日本の実業家 えさき りいち 佐賀県出身の人物 えさき りいち 1882年生 えさき りいち 1980年没 えさき りいち
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