スポンサーリンク

大谷吉継 おおたに よしつぐ 名言 格言集|病と闘いながら戦国の乱世を生き抜いた武将が残した心に響く言葉・辞世の句

その他武将など

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、豊臣秀吉の家臣。

後に、石田三成と共に西軍にて関ヶ原で戦う事となった。

当ページでは「大谷吉継」の、心に響く名言や格言などをピックアップしてお届けします。




大谷吉継のプロフィール

生誕 永禄8年(1565年)※永禄2年(1559年)説も
死没 慶長5年9月15日(1600年10月21日)
時代 戦国時代 – 安土桃山時代
別名 吉隆、通称:紀之介、平馬、大谷刑部
号:白頭

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である[3]。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。

業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。

※参照 Wikipedia

 

大谷吉継 名言 格言集

1 大将の要害は徳にあり。徳あるところ、天下これに帰す

【意味】
本当に固まった城とは大将が持つ人望であり、人望がある人のところに天下は巡ってくる

 

2 金のみで人は働くにあらず

石田三成にかけた言葉と言われています。

 

3 大人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん

戦で裏切った小早川秀秋に対しての言葉。

 

4 契りあらば六つのちまたに待てしばしおくれ先立つたがひありとも

【意味】
もしあの世でも縁があるとするのなら、死後の世界の入り口(三途の川)で待っておいてくれ。遅かれ早かれ、私もそこへ行くだろうから(辞世の句)

 

関連人物の名言集

石田三成 名言 格言集|関ヶ原の戦いに敗れた豊臣政権の五奉行が残した心に響く言葉・辞世の句
安土桃山時代、あの「豊臣秀吉」に仕えたの武将・大名。 後に、石田三成は「五奉行」となって、豊臣政権の中核を担い、太閤検地、朝鮮出兵などで武功を重ねる。 秀吉死後、西軍を組織し、東軍を組織した徳川家康と関ヶ原で対峙し敗れた。 当ページでは「石田三成」の、心に響く名言や格言・辞世の句などをピックアップしてお届けします。
源義経 みなもとのよしつね 名言 格言集|頼朝と対立し最期を遂げた武将が残した心に響く言葉・辞世の句
平安時代末期の武将で、幼名は牛若丸。 鎌倉幕府の初代将軍の源頼朝は異母兄に当たる。 一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となるが、その後兄である頼朝と対立し、最期は戦うことなく悲運の最期を遂げた「源義経」の、心に響く名言や格言などをピックアップしてお届けします。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました